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恋愛実話ショートストーリー「温さ」【DOKUJO文庫】

土曜日の昼、週の初めにたっぷりと買い込んでおいた食糧がついに尽きて冷蔵庫が空になった。

この洗う時の臭いとぬるつきが嫌だなと思いながらあなたは納豆ご飯を食べた後のお椀を片付ける。

食後すぐ、お腹がいっぱいなのにすぐ立ち上がって洗い物をするのは、あの人がいつ来てもいいように部屋を綺麗に保つような習慣が身についているからだ。

こういうときあなたは自分が主人なのか召使いか分からなくなってこう思う。

王様みたいになりたいな、全部だれかにやってほしい、毎日ホテルみたいな朝ご飯を食べたいし、優しい服を着て、膨らんだふかふかのベッドで眠りたい。

でも今は、しおれて汗ばんだ古着のTシャツ姿で口から納豆の臭いがするね。

あなたは明日から地元の友達が東京に遊びに来てうちに泊まるというので、急いで来客用の布団と家具や食器を買った。

前の家の荷物はほとんど捨ててしまっていた。

あの人と一緒に選んだ琺瑯のスプーンや、誕生日に貰った浴用のボディブラシ。

もう引っ越して半年も経つのに、あなたは優柔不断なのと仕事が忙しいからいつまで経ってもものが揃わない、ベッドだけがある部屋に住んでいるので、この機会に生活が整うのは良いことかもしれない。

でもこの新しいうちに誰かが来てその人のために何かをするというのは、あなたの中の進んだ針がまた元に戻って動き出すようなことだ。

洗濯機に柔軟剤を入れるたび、あの人と同じその香りに殴られそうになるあなただというのに。

午後、あなたは届いた家具の梱包されていた段ボールを踏み壊して畳み、紐でくくるのを延々とやる。

段ボールを畳むのは力が要るし、手足が汚れるので嫌いだったろう。だが続けてやってみると、存外楽しいし、縛り上げて玄関に持って行って積み上げると達成感があるものだ。

二人で選んだ家具を組み立てるとき、あの人は黙々と真剣で、自分でやるとなって初めてあなたにもその気持ちがわかっただろう。

重い板をひっくり返すとき。

どうしようもないと思われた難所を乗り越えて金具がはまりきったとき。

今まで誰かに頼っていたものがこうしてみんな一人でできるようになっていってしまうね。

まだまだ片付かない部屋からベランダに出て、疲れ切ったあなたは子供の頃、実家を建てていた大工さんたちが今のあなたと同じようにタオルを首にかけて煙草と缶コーヒーを喫んでいたことを思い出す。

あなたはまだ基礎しかないその家の、自分の部屋になる土地に立ってわくわくしていたね。

六月の昼間だというのに空は寒く、素足が黒く濁るような墨色の空気の中で、目の前の電線を宝石みたいに透きとおった水滴が一粒つたっていって雫になって落ちるのをあなたは見た。

夜、あなたはお腹が空いて、買いに出るのも面倒なので初めて出前を頼んだら十五分くらいでやって来て、どこを移動しているのかも携帯からすぐ分かることに驚嘆する。

あなたは自覚していないかもしれないが、そういった一つ一つのことはあなたが望んだから起こる。

コーラを飲みながら甘いたれのハンバーガーを食べてあなたは、あの人はこういう食事をものすごく嫌がり、「ちゃんとした料理」を重んじていたことを思い出す。

あなたはだらしなく床の上に寝転んでノートパソコンを開く。

パソコンの画面のことをウィンドウ、と呼ぶね。あなたが世界を見る窓はこんなにも小さく、あなたは考えごとをしているつもりでも、その発想はあなたの外側からやって来るもので、その上でなにもかもに悩むのはどうしてだろう。

あなたはあるアーティストの記事に聖書のことばが引用してあるのを見つける。

わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

ものを触って何かを冷たい、と感じるとき、実際はその何かから体温がうばわれているのだという。

熱いと感じるときは熱を与えられている。あの人とあなたとの間に温度差はなかった。

いやになったところはすべて、自分自身のいやなところだったね。本を読まないことも、休みの日に寝てばかりでどこにも行かないことも、全然おしゃれじゃないことも。

氷が溶けて炭酸の抜けたコーラの紙カップの下に水たまりができている。

あなたは立ち上がって、まとめた段ボールを持ってごみ収集場に行く。何往復もする。手に持てず頭と肩とで挟んだ傘がずり落ちるので、あなたはふとそれを外して玄関に置いてみて、もう濡れていいものとすると、雨に降られることは存外気持ちがいいのだった。

そう、あなたがこれを選んだのだ。

冷たい清潔な大気の揺れがあなたを流れる水をつまんでいく。汗か雨かわからないものに濡れて、あなたは道の真ん中に立っている。

文:橋田奈々

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編集部
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