とても難しい問題ですよね…
そもそも信仰は自由ですし、相手を尊重したいとは思いますが、「結婚」となると踏み込めないラインがどうしてもあるのかもしれません。個人の問題だけではすまないところもありますし。
私も、創価2世かつ創価大学卒(ご両親も狂信的)、携帯には聖教新聞?のアプリ…と、素人目から見ても所謂「熱心な」学会員の方と真剣に結婚を考えたことがあります。(私個人は違いますが、うちの家系は”犬猿の仲”の日蓮正宗です)
彼は今まで出会ったことがないくらい気があって居心地が良かったですし、事情はなんとなくお互い知りながら数年共にいました。私の前では学会の話はまったくせず、将来についても「結婚しても強制はしない」と言ってくれていました。それでも、小さなところで彼の二面性というか、「一体この人は誰?」と思ってしまうことがあり、踏み切れなかったです。
「入ってくれると嬉しいけれど、強制はしない」という言い方に私は「入って欲しいと思っているということは、私が勧誘されていても守ってくれないかもなあ」と勘ぐってしまったり、彼がFacebookに池○先生や会報?からの引用と「涙が出た!創価学会でよかった!」「今日の聖教新聞にうちの支部が掲載されています!」「家庭訪問に行って創大を勧めました!最高!」などの投稿をしていたり、何気なく持ってくるものが創価学会のグッズ?仏具?だったりして、彼という人間がわからなくなってしまうことがよくありました。私が愛していると思っている人は、彼のほんの一面だけで、結局彼のことを私は全く知らないのでは?と思えてしまって、当時は相当悩みましたし、苦しかったです。余談ですが、ご両親は私のことをとても嫌っていたようです(彼のお母さまからのLINE通知が見えてしまったことがあるのですが、「いい加減見切りをつけなさい」と来ていました笑)。誰からも祝福されない関係というのはやはり切ないですよね。
なんだかんだ煮え切らない返事をしているうちに、彼はご実家に帰ることになり、古巣に戻って目が覚めたのか(周りからも説得されたようです)、「やはり信心を共有できる人の方がいい」と告げられ、別れました。まさに、私が恐れていた通りのルートと理由での別れだったので納得できました。ひどく悲しかったですが。
「信仰は生き方」と言ったりしますから、やはり一生涯を共に過ごすとなると、不可能でないにしても、少なからず茨の道なのだと思います。私がもう少し歩み寄ればよかったですし、彼ももっとオープンに私に共有してくれてもよかったのでしょう。私たちは尊重を言い訳に、解決策を見つける努力を怠ってしまったのだと思います。今は客観的にそう言えますが、もう一度あの時に戻って別の選択ができるかというと、おそらくできないなあ。多分もう彼のような人には出会えないでしょうが、私はこれで良かったと思っています。
国際結婚と同じこと、という意見をたまに聞きますが、ある意味創価学会との結婚はそれ以上の難易度な気がします。育った国も宗教も言葉も「まったく違う」というのは、裏を返すと予備知識ゼロでフラットなので、互いにコミュニケーションをとり歩み寄るということができるのかもしれません。しかし創価学会のように「お互いある程度理解している、けれどそこに認識のズレがあるかも」となると、状況が複雑になるんですよね。見る方にバイアスがかかっているのもあるし、話す方も拒絶されるのが怖くて正直に話せないこともあると思います。ものすごく細かく、根気強く話し合うことができないと、結婚できたとしてもきっとその先で同じ問題にぶつかるんでしょうね。
よくご事情はわかりませんが、なんだか自分の境遇に似ているところがあるのかなと思い、乱文を書きなぐってしまいました!お目汚しを失礼いたしました。